6 セルビッチ

 

6. セルビッチ

 

 

あの夜、眠ることができなかった。
「ジーンズを作る」という言葉が、胸の底に落ちて、じわじわと広がっていた。
それは波紋というより、熱のようだった。

やってみよう。そう思ったのは確かだった。
けれど、その先にある景色はまだぼんやりと霞んでいた。
わかっているようで、なにもわかっていなかった。
朝が来て、私は黙って助手席に乗り込んだ。

車は、ぐんぐん山道をのぼっていく。
窓の外は、乾いた枝と色褪せた下草ばかり。
葉を落とした木々が、骨のように寒々しい空を引っかいている。

高速道路の入り口に辿り着くだけで一時間もかかる億劫さは、
この高原ソフトクリームがいつも帳消しにしてくれる。

ソフトクリームをひとなめすると、ミルクの甘さの奥に、かすかな青草の香りが残った。
その味は、なぜか今日だけ、ほんの少しだけ違って感じられた。

「セルビ… あれ?なんだっけ?」
「セルビッチ」
「そう、それ。ところで何語なの?」
「英語だよ。生地はしっていう意味。“selvedge”ってスペル」
「それ、変だよ。だったら、語尾は“チ”じゃなくて、“ヂ”じゃない?」
「知らないよ。どっちでもいいんだよ。とにかく、デニムはセルビッチなの」

まっすぐ前を向いたまま、良平は答えた。
「それで、セルビッチを買いにわざわざ大阪へ向かうって事でしょ?」

舗装の継ぎ目に車が揺れ、ハンドルの先では良平の指がソフトクリームを器用に固定していた。
ソフトクリームを口に運びながら、窓の外に目をやった。
山の背をなぞるように、小さな小川が糸のように続いていた。
透き通った水が、冬の光をひっそりと撥ね返していた。
その向こうに、数日前の会話がぼんやりと蘇る。

「それなら、ジーンズを作ろうよ」
「うん、そうしましょう」

この会話には、続きがあった。

舌の根も乾かぬうちに、良平は「まずはデニムだ」と言った。
その口ぶりには、どこか確信のようなものが滲んでいた。
聞き返す前に、次の言葉が、もう用意されていた。

呪文のような単語が次々と飛び出した。
セルビッチ、タテオチ、ハチノス、ムラカン、オニヒゲ、耳が鼻で口がどうした?

意味はまるでわからない。
けれど、その音の響きだけで、なぜか少し心が動いた。

「……ちょっと前から調べてたんだよ。たまたま見つけたって感じだけどさ。
セルビッチって、買えるみたいでさ。
ただ、実際どういうのが“いい”のかは、正直、まだ全然わかんない。
……だから、行って、ちゃんと見てみたいんだよね。来週末にでも。」

私はまだ、“ジーンズを作る”という行為のイメージすら持っていないのに、
彼の頭のなかでは、既に工程表が描かれ、見えない手で何かが動き出しているようだった。

ポカンと口をあけたまま、ただ聞いていた。
意味のわからない言葉を、浴びるように。
それだけで、少しずつ、自分のなかに何かが入ってくるような気がしていた。

ひとつずつ言葉を拾っていく感覚が、どこか昔の自分の手に重なった。
プログラムのコードも、意味より先に手が覚えていた頃のことを、少しだけ思い出した。

そうして今日、私は良平の運転する車の助手席にいる。
目指すのは、大阪のとある生地問屋。
目的は、「セルビッチデニム」。

山道を越え、高原を抜けて、高速の入り口まではまだ少しかかる。
名神高速へ出るにも、さらに時間が必要だ。

けれど今日ばかりは、この距離が、私に心の準備をさせてくれる気がしていた。

すでに完食したソフトクリームの記憶が、まだ舌の奥に残っていた。
あの味は、いつもと同じはずなのに、なぜか少し違って感じられた。
たぶん私のなかの“何か”が、もう動きはじめていたのだ。

何も知らないまま飛び込んだ世界で、
私の目は、ほんの少しだけ冴えてきたように思う。


 大阪の片隅に、番号で管理された年季の入ったビル群がある。
私たちが向かったのは、その中の「棟3-B」──南側に建つ古い塔だった。

無機質な数字が、各棟の入り口に掲げられている。
劣化した金属プレートには、時間の重みだけが静かに刻まれていた。
その姿は、都市の記憶を抱えて眠る装置のようだった。
無機質な塔が、なぜかひどく静かに見えた。

地下駐車場に車を停めた瞬間、かすかなざわめきのような違和感が背筋を走った。
照明は薄暗く、コンクリートの壁はしっとりと湿っている。
右手奥では、ひときわ異様な赤い光がじわじわと滲んでいた。

「中華」とだけ書かれた看板が、チカチカと明滅している。
その奥には、ガラス越しに円卓と赤いランタン。
人影はないのに、湯気のような熱気だけが、うっすらと漂っていた。

なぜだか目が離せなかった。
現実の質感が、わずかにズレているような感覚。
サイバーパンク映画に出てくる都市の地下層──
そんな光景が、不意に脳裏をよぎった。

エレベーターは重たく、低い唸りを上げながらゆっくりと昇っていく。
鈍く銀色に光る内壁には、色褪せたポスターが貼られていた。
冷たい蛍光灯が乗り合わせた知らない顔を無表情に照らしている。

フロアに降り立った瞬間、空気が変わる。
湿度のない熱気と、使い古された素材のにおい。
整然としているようでいて、どこか情報が錯綜しているような印象があった。

床のコンクリートには、染みのような黒ずみがうっすらと残り、
歩くたびに靴底がわずかに鳴る。
壁のあちこちには、黄ばんで波打った注意書きが貼られていた。
どこかで段ボールを引きずる音がしていて、それが周囲の静けさをいっそう際立たせていた。

ブレードランナーの街角を思わせるような、密度のある無機質さ。
それでいて、プロの卸市場のような実用の匂いもする。
その混じり合った空気のなかで、私と良平の身体は、ふっと強ばった。

場違いなところに来てしまった──
そんな感覚が、背中を静かに撫でていく。
素人がこんな場所をノコノコ歩いていていいのか。
そんな小さな不安が、足元をわずかに鈍らせていた。

廊下は冷たく、長く、まっすぐに伸びていた。
その両側には、間口の広い店がずらりと並んでいる。
「小売」「卸」「カット売り」──
見慣れない単語が、白い紙に太く書かれて貼り出されていた。
そのたびに、胸の奥がひゅっとすぼまるような思いがした。

そんなとき、目的の店名を見つけてしまった。
視線が一点に吸い寄せられる。のどが、ほんのわずかに乾いた。

奥に細長く伸びるその店は、もはや“店”というより倉庫だった。
重そうなスチールラックに、反物が乱雑に詰め込まれている。
すべて、デニム。

はじめて見る“セルビッチ”が、うなぎの寝床のように、静かに奥へと折れ曲がっていた。

「入ってください」と言われている感じが、どこにもなかった。
店なのに、招き入れる気配がない。
薄い空気の層が、私とその空間のあいだに静かに横たわっていた。
それを越えるには、もう少しだけ、何かが必要だった。

足の裏からじわじわと冷えが這い上がってくる。
かかとを上げるたび、底冷えのする床が身体を引き留めているようだった。
暖房がまだ効ききらない部屋の空気は薄く、背筋のあたりに冷たい筋が走った。

困った。
手を伸ばせば届くはずなのに、ただ立ち尽くすばかりだった。
素人の自分が触れていいのか──そんな考えが、指先をじわりと鈍らせていた。

良平は、生地に触れながらも、どこかその内側には踏み込んでいないように見えた。
まるで、自分で引いた見えない境界線を越えずに、やり過ごそうとしているようだった。

そのときだった。
背後に、わずかな気配が走った。
誰かが近づいてくる音が、するような、しないような──
気づけば、すぐ後ろに人が立っていた。

学生風の青年が、まったく同じ動作をしていた。
反物にそっと触れ、首をかしげ、また隣へと手を伸ばす。
その一連の所作が、どこか既視感を伴って見えた。

驚くほど、良平に似ていた。
慎重というより、“それっぽい手つき”を必死で演じているようで、
ぎこちなさを「慣れてます風」に塗り替えようとする仕草まで、そっくりだった。

ふたりはまるで、舞台の下見をする役者たちのように──
無言のまま、同じ所作を繰り返していた。

思わず吹き出しそうになった。

けれど──笑うには、少しばかり時間がかかりすぎた。

男たちは、動かない。

結界の外、ぎこちない手つきでデニムをつまみ、うんうんと唸っては、また隣の反物に手を伸ばす。
それが、何度繰り返されたかわからない。

私はといえば、その様子を、ただ黙って見ていた。
見て、見て──まだ見ていた。

棚の奥で、ほどけかけた反物が、くたびれた犬の耳のように垂れていた。
ぴくりとも動かないその生地が、なぜか、自分の気持ちを代弁しているように見えた。

なんというか……もどかしさ、だ。

──気づけば、いつだってそうだった。
火を灯すのは良平で、薪をくべるのは私だった。
口火を切るのは彼。でも、実際に最初に動くのは、たいてい私の方。
今回も、その順番を変える理由なんて、どこにもなかった。

私はひとつ、浅く息を吐いた。
そして、足を一歩、前に出した。

うなぎの寝床のように奥へと続く反物のあいだを縫うように進み、
業務机の向こう、こちらに背を向けて座る初老の男性へと、静かに近づいていった。

「すみません、小売ってしていますか?」

男性は無愛想に、「好きなメーターで買えるよ」とだけ答えてくれた。

その言葉を、結界の向こうでじっと聞いていた男たちが──
待ってましたとばかりに、弾かれたようにこちらへ駆け寄ってきた。
「オンスがどうで」「ザラ感がどうで」「うんぬんかんぬん」……
勢いよく、矢継ぎ早に質問を浴びせはじめる。

しばらくのあいだ、彼らはまるで“確かな目利き”にでもなったかのような顔つきで、
並んだデニムを次々と手に取り、真剣に見比べていた。
さっきまでの“それっぽさ”は影を潜め、今やすっかり、選ぶ者の顔になっている。

良平のつぶやきを横で聞き流しながら、
私はただ、「ふーん」「へぇ」と、口先だけの相槌を返していた。
インディゴの深みがどうとか、耳の幅がどうとか──そんな話を、それっぽく語っている。
自信ありげではあるけれど、きっと彼も、まだほんとうのところはわかっていない。

「これ、どうかな?」

そう聞かれて、私は一瞬だけ、そのデニムに指を添えた。

「……いいんじゃない」

その言葉に、自分の気持ちがどれだけ入っていたのか、自分でもよくわからなかった。


「じゃあ……これ、3メートルください。いや、やっぱり──6メートルで!」

こうして私たちは、ジーンズを自分たちの手で作るための、  
記念すべき第一歩を踏み出したのだった。  

学生の彼は──  
いつの間にかいなくなっていた。  
私たちがデニムに夢中になっていた、ほんの数分のあいだに。  
あれは幻だったのかもしれない。今となっては、もう確かめようもない。  

けれど、そんな出会いとすれ違いさえも、  
あのときの空気の一部として、胸の奥にそっと残っている。  

そして──  
私たちは、数ある反物のなかから選び取った、はじめてのセルビッチで、  
驚くべきスピードで、一本のジーンズを仕上げることになる。  
そう、気づけばもう完成してしまっていたのだ。  

……が、実はこの話には、大きなオチがある。  
それが、のちに私たちが痛々しいまでのデニム研究沼に沈んでいく、  
一つの分岐点となるのだが──

それはまた、別の話。

 

次回、ボクの最強ロボット