1. 静かに心が死んだ
この物語は本当にあった出来事である。
少なくとも、私がそう信じている限りは。
プロローグ
この場所に来るまでは、良平の「赤いカニが歩いている」という言葉を信じていなかった。
だから、実際にその姿を見たときは本当に驚いた。
カニは、茹でてから赤くなるものだと思っていたから。
真っ赤に毒々しくも鮮やかに咲く花が彼岸花という名前だなんて知らなかった。
海の本当の青さも、磯の香りの強さも知らなかった。
山の朝の澄んだ空気や、木漏れ日に透ける緑の葉の輝きも。
小川のせせらぎや鳥のさえずり、風に揺れる松の枝のささやきも知らなかった。
降り注ぐ満天の星空に酔うことがあるなんて想像したこともなかったし、
民家に忍び込み、みかんを盗む野生の猿がいるなんて、思いもしなかった。
私は何も知らなかった。
田舎で暮らす美しさのことも。そして、残酷さも。
もちろん、ジーンズを作り出すことになる未来のことなど、知る由もなかった。
1.静かに心が死んだ:無重量からの着地
「……暇だな」
モニターのチャット欄に浮かび上がったその三文字を見て、
私は握りしめていたコントローラーを床に落としてしまった。
その鈍い音に、良平が怪訝そうにこちらを見た。
胸がドクンと鳴った。私は思わず口にした。
「やばい。やばいよ。このゲーム、もうやめる。引退する」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
土曜日の夜は明け方まで終わりのないオンラインバトル。
日曜日は昼過ぎまで寝て、起きたらまたゲーム。
そんな週末が、結婚してすぐの私たちには“永遠の自由”のように思えた。
食事もまともに取らず、部屋着のまま。
誰にも会わず、誰にも何も言われない。
出かける支度もいらない。
それが、私たちにとっては「満たされた生活」に思えた。
思えば、結婚するずっと前に、オンラインゲームを教えてくれたのもやっぱり良平だった。
世界を変えるのはいつも彼の役目で、
文句を言いながら結局それを楽しむのが、私の役目だった。
私はその流れに身をまかせるだけで、新しい世界に足を踏み入れることができた。
そしていつも深く、深く潜っていくのだ。
オンラインゲームの存在を知ってから、もう何年も経っていた。
多くのゲーム廃人を知っていたし、メタバースなんて言葉が流行るずっと前から、
その感覚も、中毒性も、コミュニティの濃密さも、すでに体に染み付いていた。
でも、あれは“電脳”なんて呼ぶには、ちょっと湿っぽくて、あまりに人間くさかった。
ギブソンが描いたサイバースペースには到底届かない、
現実の延長線にだらしなく広がる、ただの“居場所”だった。
しかし、あの世界にしかない、静かな、言葉にしにくい安心があった。
都会の生活に追われ、呼吸さえ浅くなっていく日々の中で、
私たちはあの空虚なログイン画面に、密かな自由を重ねていたのかもしれない。
私たちはその仮想の世界で一緒に“活動”することを心から楽しむ事をやめなかった。
怠惰な生活をするには、私たちはちょうどいい年頃だった。
新婚生活はその怠惰を正当化するには十分な理由になった。
「どうしたの、急に」
良平が不思議そうに尋ねる。
「チャットでね、誰かが“暇だな”って言ってて。
それ見た瞬間、なんかゾッとしたの。
だって、ゲームしてるのに“暇”って言ってるの。
でも、それ見て、私も同じふうに思っていたってことに気がついたの。
好きでやってたはずなのに、暇って思ってるんだよ。
なんで今もやってるの? やばくない?
このままずっとこんな時間を無駄に過ごしてていいの?って。
急に、怖くなったんだよ。やばいよね、やばすぎるよ。」
そうまくし立てる私に、良平はあっさりとうなずいた。
「そうだな。じゃあ、このゲーム、やめよう」
こうして、オンラインゲームに明け暮れたあの静かな日々は、
まるで長い眠りからようやく覚めたように、音もなく終わることになった。
濃密で、どこか無重力のような世界から、現実の重さがじわじわと戻ってくる。
それは、心のどこかでずっと知っていた「終わり」だった。
モニタに、淡々としたフォントで警告文が表示される。
「本当にセーブデータを削除しますか?
この操作は元に戻せません。」
私たちは、ためらいなく「はい」を選び、
まるボタンを押した。
目を閉じて、再び開いたとき、
窓の外には、薄曇りの空が広がっていた。
乾いたコンクリートと、湿った青草や土の匂いが、ふいに鼻をかすめた。
何かを失った気もしたし、ようやく何かに触れた気もした。
日常という名の、しかしまだ未知の世界へ、
私たちはようやく歩き出そうとしていた。
まだ何も決まっていない。何も始まっていない。
でも、少なくともひとつだけ確かなのは——
目が覚めた、ということだった。
それが、静かに心を蝕んでいくはじまりだったとは、
このときの私はまだ知らない。