1. 静かに心が死んだ2

 

2. 静かに心が死んだ:穏やかなる停滞

 

 

朝、目を覚ますと、天井のすみっこにザムザがいた─ような気がした。

でも違った。

それは、脚の長い、拳ほどの大きさの、静かな蜘蛛だった。


最初に見かけたとき、それは壁に張りついた黒い塊だった。

少しギョッとしたが、ただ黙ってこちらを見ていた。


私たちは、いつの間にかその蜘蛛を「ジロー」と呼んだ。

知らないうちに家に侵入してきた招かざる害虫たちを片づけてくれる彼を、

少しずつ愛着を持って見るようになった。


夢と現実の境目でまどろみながら、時計を見た瞬間、飛び起きる。

「遅刻する!」


ギリギリまで寝ていた良平と私は、

洗濯物の山からTシャツとジーンズを引き抜き、

鏡も見ずに玄関を飛び出した。


家から職場までの20分のドライブは好きだった。

早朝の空気にまだ夜の匂いが残り、

トンネルを抜けた先には、まばゆい光の中、海が広がっていた。


海の青さは日ごとに違う。

それを見て心が動くようになったのは、ゲームをやめてからだった。


日々は少しずつ変化していた。

仕事帰りに峠をひとつ越えて隣町までCDを買いに行き、

ハンバーグの焼き加減にこだわり、

観光客に紛れて極みカレーパンを頬ばる週末。

ささやかだけど、確かに前とは違う時間。


しかし、その小さな変化はやがて慣れとなり、刺激は薄れていった。

町にある唯一のコンビニ、限られた観光地、顔なじみのパンとコーヒー。

週末を過ごす場所も、気づけばパターン化していた。


ある朝、カーラジオの声が言った。

「田舎もいいけど、住むのは……ね。ほら。」

その“ほら”の意味が、不意に胸に引っかかった。

今日も海は青い。でも、それだけだった。


平日の夜も持て余すようになった。

昔の趣味だったブログを、再開することにした。

タイトルを決め、ブログ概要の欄に“ハローマイフレンド”と入力する。

久しぶりの投稿には、昔のゲームブログの癖が、少しだけ滲んでいた。

かつて私のブログは、ランキング上位の常連だった。

そのことを、今も覚えている人は、もうほとんどいない。


ブログ初投稿(2006年8月9日)

タイトル:今日はハグの日


FFから離れて以来、気づけば多忙で充実した日々。

今日から新しいブログをはじめました。ひろです。

8月9日はハグの日。入籍記念日。

2年がたった。

ギンギンの頭痛の中、気づけば日付も変わり……

仕事してたら、1日が終わった。

ま、こんなもんかなー。


“公開”を押した瞬間、指先がぴくりと震えた。

けれど、何ごともなかったふりでマウスから手を離した。

「充実した日々」と自分に必死に言い聞かせた言葉たちが、

青白いモニターの上に虚しく並んでいた。


ふと見上げた天井に、またジローがいた。

ザムザではない。でも、その“異質さ”がどこか、似ていた。


外では、深夜の海が深く、暗く眠っている。

私の内側にも、名前のない何かが、静かに目を覚ましかけていた。

けれど私はまだ、そのまどろみの中にいた。