1. 静かに心が死んだ3
3. 静かに心が死んだ:偽りの勝利
ブログを始めたのは、ただ夜になると、
なにかを書きたくなるからだった。
妙なテンションや、意味のない絵文字。
中身のない冗談。
でも、ふざけた言葉のすき間に、本音が少しずつにじんでいた。
振り返ると、それは
「自分と向き合う練習」だったのかもしれない。
父と母との会話を、
ふとタイピングの途中で思い出すことがあった。
移住の話をしたとき、父は言った。
「そんなところで、本当に生活できるのか」。
母は明るく笑って、
「寛子なら大丈夫でしょう!」と言った。
私はそれに乗って、
「大丈夫に決まってる。観光地だし、空気も美味しいし」と返した。
父の顔には、
最後まで小さな不安が残っていた。
でも私は、そこに“勝ち”の匂いを感じていた。
結婚、移住、ゆったりした田舎での新生活。
それは、がむしゃらに働いてきた自分へのご褒美であり、
“次のステージ”だった。
初出勤の朝、ヒールを履いて家を出た。
これが私の新しい一歩だと、少し浮かれていた。
良平とは時間をずらして出社した。
職場では社員もパートも集められ、
私は「新しく加わる人」として皆の前に立たされた。
ざわめきと視線のなかで、
「都会の人やねえ」という声が聞こえた。
良平がそばにやってきて、小さな声で言った。
「膝上のスカートとヒールは、さすがに場違いでしょ」
その一言で、自分だけが“ここの人間じゃない”と知らされた気がした。
週末、名古屋のLevi’sへ行ってジーンズを買った。
店内には、見たこともない種類のジーンズがずらりと並んでいた。
試着室の前で、良平は一本一本、じっくりと見比べていた。
私は、そんな彼の背中をただ静かに眺めていた。
人生で初めて履くジーンズ。
何が似合うかも、どれが正解かも、わからなかった。
全部良平が選んでくれた。
私は、変わろうとした。
馴染めないなんて、認めたくなかった。
ただ、それだけだった。
スニーカーを揃え、タンスの中身をすべて入れ替えた。
化粧もしなくなった。
イントネーションを真似して、下世話な話題で笑った。
やがて、みんなの視線は薄れていった。
もう誰も、私たちを特別視しなくなった。
母の言葉の通り、私はどこでもやっていけた。
でも、その“どこでも”に、本当の私はいなかった。
しばらくは、それでも幸せだった気がする。
草の匂い。太陽。刈り取られた畑の静けさ。
ゆるやかに繰り返される生活は、
身体の奥をほぐしてくれた。
努力しなくても、満たされているような気がした。
でも、これからの自分の姿だけは、
どうしても思い描けなかった。
気づけば私は、ただ日々をなぞるように過ごしていた。
ゲームに没頭していたのも、
そのことに気づかないふりをするためだったのかもしれない。
都会の空気が、久しぶりに肌をかすめた。
若宮大通のケヤキ並木が、風に舞っていた。
ガラス越しに映った自分の姿に、
一瞬、誰だか分からなかった。
だらしない服と、ぼさぼさの髪。
冴えない顔。
「こんなはずじゃなかった」
そうつぶやいた心の声を、私は聞いてしまった。
あの頃、私は“勝ち組”のつもりだった。
結婚して、自然の中で暮らして、愛のある家庭を築いていく。
都会を離れて、穏やかで上質な毎日を手に入れた自分を、
少しだけ誇らしく思っていた。
でも、夢見ていた風景のなかに立つ自分が、なぜか見えなかった。
私は、都会での自分と比べていた。
もっとキラキラしていて、ギラギラしていて、
たぶん、ちょっとだけ輝いていた自分と。
今の私は、どこかで「立ち止まっている」と感じていた。
努力せずとも、穏やかに暮らせる日々。
でも、その穏やかさが、次第に私をむしばんでいった。
まるで、“エロイ”のようだと思った。
自分の意志ではなく、与えられた環境の中で、ただ静かに生きている。
いつか、“モーロック”に喰われるその日まで、なんにも気がつかずに。
静かに暮らすには、まだ早すぎたのかもしれない。
風の中に、かすかにあの町の潮の匂いが混じっていた。
どこかの感情が、また疼き始めていた。
私、いま、何をしてるんだろう。
帰宅後、またブログを書いた。なにかを書かずにはいられなかった。
そのときはまだ知らなかった。
ほんの数日後、
まったく予想していなかった扉が、
ひょっこりと目の前に現れるなんて。
この町ではもう何も始まらないと思っていた私の前に、
人生を大きく動かす扉が──
まるで、うねる波が、
すぐそこまで迫っていたように。