4.運命の扉の位置が違う
4. 運命の扉の位置が違う
この物語を書いていると、ときどき、あのとき感じたざらつきがふっと蘇る。
心の奥に沈んでいたものが、小さく波立つような感覚。
それでも今日は、良平に読んでもらおうと決めていた。
わずかに湿った空気が、まだ眠気を引きずるように部屋にとどまっている。
窓の向こうでは、夜の雨を含んだ紫陽花が、重たげに揺れていた。
キッチンから、小さな火の音が聞こえる。
良平が、1870年代の銅製ポットで湯を沸かしている。
くすんだ金属の肌に、炎の赤と青がちらちらと映っては消える。
やがて、ふつふつと泡が立ちはじめ、私は机に座ったまま、その音を背中で聞いていた。
銅は熱のまわりがよく、そこから立ちのぼる蒸気にはどこかやわらかさがある。
その湯で淹れたコーヒーは、香りがひときわ深く、舌にふれる感触もどこか丸みを帯びていた。
そんなふうに語るようになったのは、ジーンズを作りはじめてからのことだ。
以前の私なら、誰がいつ、どこで使ったかわからない古いポットを、
台所に置いておくことすら躊躇していたと思う。
「いい香り」
思わずそう呟いて、iPhoneの画面から視線をそらし、良平に目をやる。
彼は、ポットの木製ハンドルに小さなタオルを巻きつけ、
下準備を済ませたフィルターに盛られた豆へ、慣れた手つきで湯を注いでいた。
湿った空気のなかに立ちのぼる香りは、焦げたような甘さを含んで、
胸の奥にゆっくりと染み込んでくる。
それだけで、自分の輪郭がはっきりしてくるような気がした。
あの頃は、たしかインスタントコーヒーだった――ふいに、そんなことを思い出す。
「ここまで書いた」
コーヒーを受け取るタイミングで、iPhoneを良平に手渡す。
これまで書いてきた物語のプレビューが、そのまま画面に表示されていた。
オレンジ色のオールドパイレックスに注がれたコーヒーをひと口すすり、私は待った。
良平は静かに腰掛け、無言のまま画面に目を落とす。
親指だけを動かしながら、淡々とスクロールを続けていく。
私はその顔を、睨むように見つめていた。
眉の動き、口元の揺れ、まばたきの間隔――
何か手がかりはないかと、神経を集中させる。
けれど、何も起こらない。
ただ、静寂のなかにコーヒーの香りがゆっくりと満ちていくばかりだった。
そのとき、自分の心臓の音が耳の奥で鳴りはじめた。
ドクン、ドクン――
さっきまで気にも留めていなかったその音が、徐々に輪郭を持ちはじめ、
良平の無表情と鼓動のあいだで、焦りだけがふくらんでいく。
「どうかな?」
待ちきれずに声をかけた。
「いいんじゃない?」
画面から目を離さず、淡々と答える。
……それだけ?
胸の奥に、ひやりとした空気がひと筋走った。
何か、もっと言葉になるものを期待していたらしい。
私はカップを持ち上げるふりをして、視線だけを良平に向けた。
「ねえ、本当に? 変じゃなかった? あの頃の感じ、ちゃんと伝わってた?
……焦っていたのは、私だけだったのかな?」
ようやく顔を上げた良平が、少し間を置いて言う。
「何かしないといけないな、とは、もちろん思ってたよ」
その言葉を聞いたとき、胸の内側で何かが音もなく崩れた気がした。
安心とも、がっかりとも違う。言葉にしきれない“ずれ”のようなもの。
「将来が見えなくて、不安で泣いた夜のこと……覚えてる?」
「うーん……覚えてない」
あっけらかんとした返事に、一瞬だけ言葉を失い、そして思わず笑ってしまった。
そうか。そんなものか。
私にとっては忘れがたい夜だった。
けれど彼にとっては、通り過ぎた風景のひとつに過ぎなかったらしい。
そこからは自然と、思い出話が始まった。というより、“答え合わせ”だった。
あのとき何を考えていた?
どうしてあんなふうに言ったの?
私は、こう感じていたんだけど。
いくつかはすれ違っていて、
いくつかは、思っていたよりも近かった。
そして、“運命の扉”の話になったとき、私たちの記憶は、思いがけずずれていた。
あの場所──私たちの人生が少しだけ、でも確かに動いた、あのときの扉。
互いが指差す位置は、まるで違っていた。
「いや、絶対にあそこだったって」
「え? いやいや、あっちの角のところだよ」
どちらも譲らず、ついにGoogleマップを開くことになった。
すると、そこからが面白かった。
20年近く前の記憶は、思っていた以上にあいまいで、思い込みだらけだった。
画面のなかに映る町は、思い出よりも鮮やかだった。
消えたはずの坂道が現れ、あるはずの喫茶店の看板が影も形もなかった。
部屋にはまだコーヒーの香りが残っていた。
ふたりして画面をのぞき込んでいた。
あのとき確かに開いたはずの“扉”は、地図の中からは見つからなかった。
でも、記憶の奥には、今も確かに残っていた。
私たちの人生が、静かに分岐した、その入口の手ざわりだけが。
扉の前に立ったときのあの静けさと、なぜか確信めいた感情だけが。
それは、記憶の町をめぐる小さな旅だった。
懐かしさと可笑しさに笑いながら、胸の奥で、あのときのざらつきが静かに揺れた。
そして気づけば、私はふと、あの“大事件”の影に触れかけていた。
それを察知するように、私はそっと話題を終わらせた。
その続きを語るのは――もう少し先の話になる。