5. きみょうなできごと

 

5. きみょうなできごと

 

 

“私たちが生きていくあいだに、私たちの上にきみょうなできごとがおこり、
しかも、しばらくは、そのおこったことさえ気がつかないことがあります。”

本屋の奥、文芸書の棚のあたりで、私はふと『ピーター・パンとウェンディ』に手を伸ばした。
開いたページの、ある一行にふと目が止まる。
手に取った理由も、ページを開いた動機もあいまいなまま、
けれど、その言葉だけが、胸の奥にひっそりと沈んでいった。

「ちょっと見て」

背後で良平が声をかけた。振り返ると、彼が一冊の本を差し出していた。表紙には、淡いシャツが重なるように描かれている。

「こんなの作れたら。かっこよくない?」
「へー、すごくかっこいいね」
「これ、作りたい」

彼はいつだって静かに、でもどうしようもなく、私を新しい“何か”へと巻き込んでいく。
ホームセンターで宝物のように見つめていたアイスクリームマシン、焼き鳥網、白玉団子粉——どれもが、日常の延長にある小さな冒険だった。彼が説明書を読み始めると、不思議と私の心は緩んだ。

私は「いいよ」とだけ答えた。
いつもの小さな冒険のひとつだと思っていた。

けれど、本を小脇に抱えて歩いていく彼の背中が、なぜか静かに心に残った。

帰宅後、彼は無言で椅子に腰を下ろし、パソコンを開いた。
数時間後、ふと顔を上げて言った。

「これがいい。JUKIの家庭用ミシンにしよう」

「うん、それで」と私は頷いた。
彼は少し笑って、また画面に向き直った。

「おれ、ちょっとデザイン考える」

その言葉に、私は隣に腰を下ろし、自分のブログを立ち上げた。
しばらくして、彼の画面を覗き込み、思わず声が漏れる。

「なにこれ、プロじゃん」

「ここの切り返し、どうしようかな。生地、変えて遊んでみようか」

“仕様書”と名付けられたそのファイルには、小さなサインまで書かれていた。

「年賀状以来の傑作だね」
去年のへんてこな年賀状が思い浮かび、私はくすっと笑った。

その笑いが、叫びに変わったのは、少しあとだった。

週末、名古屋の生地屋へ向かった。  
彼は静かに、でも真剣なまなざしで布を選んだ。  
手に取ったのは、三種類。ボタンもいくつか、慎重に選び取っていた。  

数日後、ミシンが届いた。
かつて物置と化していた二階の片隅を、ようやく片付けて、机を据えた。
積み上げられていた段ボール、使いかけの工具、もう履かなくなったヒールの空箱。
通勤に使っていた黒いバッグも、空になった香水の瓶も、気づけばすっかり色あせていた。

陽の射さないその場所に、ようやくまっすぐな空間が生まれた。
心の奥のぐちゃぐちゃが、ほんの少しだけ整った気がした。
未来に向かう準備を、私たちは知らないうちに始めていたのかもしれない。

息をひそめながら、本と布を交互に見つめた。
裁ち鋏は思うように動かず、まっすぐ切るだけで精一杯。
針の音を聞きながら、小学校の家庭科室の匂いを思い出していた。

「もうやめる!これ、難しすぎる!ただの苦行だよ!」

片手に縫いかけの布。肩は震え、目元が潤んでいた。
あの軽やかなアイスクリーム作りとはまるで違う。
達成感のかけらもなく、ただ苛立ちと焦りが残った。

そんな私を見て、良平が静かに言った。

「それなら、ジーンズを作ろうよ」

まるで、「それなら今夜はカレーにしようか」とでも言うような、日常に溶け込んだ柔らかな声だった。

私は、泣きたくて、笑いたくて、でも声が出なかった。
けれどその沈黙の中で、胸の奥がふっと軽くなるのを感じていた。
この苦行から逃れられるなら――

「うん、そうしましょう。」
私は即答した。

ジーンズって、作れるの?
そんな疑問が浮かぶ前に、良平による講義付きの毎日が始まることになる。
けれど、このときの私は、まだ何も知らなかった。

それが、すべての始まりになるとは知らずに。

もしあのとき、良平が「それならロケットを作ろうよ」と言っていたら、
私たちは今ごろ、きっとどこかの空き地で打ち上げ実験をしていたのだろう。

ジーンズは、ただの逃げ道だった。
けれど、逃げた先でなぜか人生が始まってしまうこともある。
おかしな話だけれど、案外それが一番誠実な選択だったのかもしれない。

——あのときページにあった言葉が、今になってゆっくりと胸に沁みてくる。
「きみょうなできごとは、しばらくは、それがおこったことさえ気がつかない」

たしかに、あれがすべての始まりだったのだ。